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【東北旅行】世界遺産/平泉の観光前に!奥州藤原氏・源義経の歴史を復習してみた

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平泉や仙台など奥州と呼ばれてた地域へ国内旅行へ行きます。観光地名所を調べると、奥州藤原氏や源義経の歴史にも興味持ったので簡単に紹介します。

ゆめぴょん(@yume_pyon)です。こんちはっ!

今回の東北旅行では、仙台から世界遺産の平泉や、一ノ関の厳美渓花巻温泉日本三景の松島塩釜、会津若松などの観光とグルメを楽しみました。

東北旅行の前に、観光地・名所について調べている時に見つけた、関連する歴史についてまとめてみました。中学以降は日本史が不要だったので知らないことだらけでした。知ってる人にも復習になれば幸いです。

平安時代初期:英雄アテルイと征夷大将軍の坂上田村麻呂

まずはざっくり、まとめます。

  • 794年、桓武天皇が平安京に遷都
  • 奥州の蝦夷のアテルイは、朝廷軍に何度も勝利
  • 桓武天皇の命令で、征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷討伐へ
  • 降伏したアテルイは、田村麻呂の懇願むなしく処刑された
  • 京都の清水寺は、田村麻呂が創建。現在はアテルイ記念碑もある

西暦794年に、桓武天皇が平安京に移ったことにより、日本の中心地(都)は現在の京都になりました。平安時代の始まりです。

一方、当時の東北地方は中央からは蝦夷(えみし、えぞ)と呼ばれていました。その蝦夷の軍事指導者に、アテルイ(阿弖流爲)という豪傑がいました。

アテルイは、侵攻してきた朝廷軍に何度も勝利しました。そこで桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍として奥州へ遠征させました。

坂上 田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)は朝鮮の百済からの渡来人の子孫と言われています。文の「菅原道真」、武の「坂上田村麻呂」と言われるように武人として有名な人です。

結局、平和を望んだアテルイが、坂上田村麻呂に降伏して奥州との戦争は終結します。朝廷は田村麻呂の制止も聞かず、アテルイは大阪で処刑されてしまいます。

今でも有名観光地の京都の清水寺は、坂上田村麻呂が創建したそうです。平安遷都1200年を記念して、アテルイの記念碑も建てられました。

奥州・東北を繁栄させるという夢は、道半ばで挫折したけど、その意志は奥州藤原氏や、伊達政宗へと引き継がれていきます。アテルイ関連の書籍・アニメ・ドラマなども多くあります。

平安時代後期:前九年の役と後三年の役。奥州藤原氏の誕生

前九年の役

まずはざっくり、まとめます。

  • 陸奥の豪族の安倍氏は、朝廷に従わず戦勝
  • 朝廷は源頼義を派遣。前九年の役の始まり
  • 源頼義は苦戦するも、出羽の豪族の清原氏の助けをかりて勝利

アテルイの時代から約250年後。当時の岩手県には、陸奥(むつ)国の豪族である、安倍氏が大きな勢力でした。朝廷への貢租を怠り、戦闘でも朝廷に圧勝しました。

朝廷は河内源氏である源頼義を、陸奥守として派遣しました。一時は休戦状態になったけど、安倍氏と源頼義との戦闘は長引いて9〜12年にも及び「前九年の役」と言われます。

源頼義は惨敗したり苦戦しました。そして当時の秋田県、出羽(でわ)国の豪族、清原氏に助けを求めて、共に安倍氏討伐に成功しました。

戦後は、源頼義は伊予(いよ)守(現在の愛媛県)に任命されます。そして奥州は、清原氏によって治められることになります。

後三年の役

まずはざっくり、まとめます。

  • 前九年の役の勝ち組、清原氏は内乱、源義家は陸奥守に
  • 源義家と清原清衡は手を結んで、清原氏の内乱を終結させた
  • 清原清衡は、藤原姓に改名。これが奥州藤原氏の誕生

前九年の役で活躍した、源義家が陸奥の守に任命されます。源頼義の長男です。そして内部抗争中だった、清原氏に介入します。これが「後三年の役」です。

源義家は清原清衡(きよひら)と連携して勝利します。この時の逸話として「雁行の乱れ」を見て伏兵を見破ったという話も有名です。

朝廷からはこの戦いは私戦と見なされ、源義家は何も与えられず、私財から関東武士に恩賞を出したそうです。それが後に、子孫の頼朝による鎌倉幕府成立のもとになったとも言われれるようです。

ちなみに義家の子孫には、頼朝だけでなく悲劇の義経や、木曽の義仲だけでなく、後に室町幕府を成立させる足利尊氏や新田義貞などもいます。濃い家系ですね。

清原清衡は、元は安倍氏家臣の藤原氏の子であったため、姓を藤原氏と改め、奥州を治めることとなります。これが奥州藤原氏の誕生であり、初代が藤原清衡です。

平安時代後期:源平合戦から奥州藤原氏の最後。源義経の悲劇

まずはざっくり、まとめます。

  • 保元の乱で源平が、平治の乱で平家だけが繁栄
  • 源義経は、奥州平泉の藤原秀衡の元で成人した
  • 源義経は、兄・頼朝のために勝利を重ね、源平合戦の大功労者に
  • 源頼朝は、義経の鎌倉入りを許さず、義経は平泉へ戻る
  • 3代目藤原秀衡の没後、4代目泰衡は義経を討つ
  • 源頼朝は鎌倉から奥州へ進撃して、奥州藤原氏は滅亡

少しだけ、東北・奥州とは関係のない話です。

保元の乱と平治の乱

前九年の役、後三年の役で活躍した源義家のひ孫にあたるのが「源義朝」です。一方で当時すでに飛ぶ鳥を落とす勢いの「平清盛」は平氏の棟梁でした。

1156年に皇位継承問題などで朝廷が、後白河天皇側と、崇徳上皇側に別れた戦いを保元の乱といいます。最終的には源義朝と平清盛が味方した後白河天皇側が勝利します。

1160年には、後白河院政派、二条天皇親政派、信西一門などが入り乱れて、平治の乱が起こります。源義朝は一度は勝利しましたが、平清盛たちの勢力により敗退し殺害されました。

源義朝の子、源頼朝も捕まり処刑されるところを、平清盛の継母の頼みにより伊豆への流刑で許されました。異母弟の義経はまだ赤ちゃんだったので助かりました。

源義経と奥州藤原氏(3代目秀衡)

源義経は幼名を「牛若丸」や「遮那王(しゃなおう)」と呼ばれ、京都の鞍馬寺(くらまでら)に預けられました。鞍馬天狗に兵法と剣術を学んだ逸話や、五条大橋での弁慶との出会いは有名ですね。

義経は16歳頃に、奥州平泉へ行き、3代目藤原秀衡(ひでひら)の元で数年間暮らします。22歳の時に、兄・頼朝が平氏討伐で挙兵したので、藤原秀衡の制止も聞かずに、頼朝の元へ駆けつけました。

そこからは、木曽義仲、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の戦いなど、平家物語で語られる歴史の名合戦が続きます。義経がいなければ、源氏は平氏に負けなかったにしても、もっと被害は大きかったと思います。

平家を滅ぼした後、頼朝は弟・義経が鎌倉に入ることを拒否しました。仕方なく義経は京都・吉野などを転々として、第二の故郷である奥州藤原氏のいる平泉へと戻りました。

3代目の藤原秀衡(ひでひら)は義経を歓迎します。そして義経を将軍として鎌倉との戦いの準備をすすめます。しかし、秀衡はすぐ病死してしまいます。

源義経と奥州藤原氏の最後

4代目の藤原泰衡(やすひら)は秀衡の意志をついで、義経をかばいますが、やがて鎌倉からの圧力に負けて、少数の義経軍を襲いました。

源義経と10数騎は、衣川館で討たれてしまいます。武蔵坊弁慶が数本の弓矢に射たれて仁王立ちで果てた逸話もあります。義経も正妻・息女とともに自害します。義経31歳でした。旅行では最後の地である義経堂も訪れました。

源頼朝は、弟・義経が殺害されたのを理由に奥州へ出兵。藤原泰衡は、義経殺害からわずか4ヶ月後にはあっけなく討ち取られました。これで奥州藤原氏は滅亡です。

まとめ:今日のゆめぴょんの好奇心

東北・奥州の歴史は知らないことばかりで新鮮でした。興味のわいた人は、もっと調べたりして教えてください。上でも紹介した『炎立つ』などの小説も機会があれば読んでみたいと思いました。

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ゆめぴょん(@yume_pyon)でした。ばいちゃお! こてっZzz

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